昭和40年11月2日 朝の御理解
大きな喜びに、大きなおかげが頂かれると思うです。お互いの、信心させて頂いておる、信心を頂いておる喜びというものが、どの程度のものかと。私は、非常にその、おー、小さいというか、狭いというか、喜びがこまい。そんな感じがするんですね。昨夜もお月次祭が終わりましてから、正樹さんが、改めて、私の前に出てきてから、久富正樹さんです。只今、九重のほうですね、あの、筋湯のほうの( 数秒間録音状態悪し )
休ませていただくときに、神様にお礼を申させてもらいます。本当に、親先生、もう、最近の、天候のこと、もう、何からかにまでが、まるきり、久富建設、いうなら、私一人のための、天気の動きというか働きというものを感じますと言うてから、涙をぽろぽろ流してから、感激して、お礼を言っておるですねえ。ですから、この気持ちは、他のものに言うても判りませんちいうて、「ほんなこっちゃんなあ」もう、本当に、おかげの実感というものを、信心の薄いものやら、信心の無いものには分からんち言う。「ね」。曇ることも、照る事も、または降ることも、私一人のために、降っておるのであり、照っておるのであり、または、降っておるのでありというようにです。それを、もう、実感できるということは、もう、素晴らしいでしょう。「ね」。ただ、自分の御願いした、目先のことが成就したら、おかげ頂いて有り難いというのではなくてです。「ね」。天地の動きそのものが、私一人のために、天地が、動いてござる、私を中心にして、天地が動いてござるという頂き方。「ね」。なるほど、本当に、私も、先日から、あちらに参りまして、感じたんですけれども、それはもう、今でも、冬の布団を二枚重ねて着ましても、寒いくらいにあります。でも、今年ぐらい寒気が緩い事はないそうです、あちらでは。いわば、今年のごと、暖かい事は無いという訳なんです。「ね」。地元のものが、たまがっとると。久富さん、もうほんとにもう、あんたげん為に、今年ははげんぬっかつのごつあるのち、言うてその、言う人があるち言う。そるきん、「あんたげえが、始めたらもう、あんた、雨が降らずにもう、お天気がようして、あんたげん為のごたるのち」言うてその、言うてくれる人があると。例えば、そういうような関係が、いわば、厳しいところで、あの、ほんとのまあ、雪が降り出したり霜が、いよいよ下り出しましたら、あー、あーいう土建の仕事は出来ませんもん。それに、どんどんはかどっておる、おかげを頂いておるんですけれども、それには、それだけの修行をしておるということですねえ。そういう中に、やっぱりあの、あー、土方の方たちと一緒に、トタン葺きの、まあ、バラックです。の中で、起居を共にして、それでやってますからねえ。あれだけでも、取りたい修行であろうと思いますもん。
先日も、丁度あの、筋湯のほうの仕事を貰いましたとき、言うておりましたが、本当に、このたびの椛目の御造営が、ある意味、久富建設のための御造営のように思います。「ね」。井上組が請け負いましたけれども、その下請けとして、あの、基礎をやることをお許し頂いて、あの、基礎をさせて頂きますために、ま、それだけ沢山の、人夫さんも雇わなきゃならなかった訳なんですね。ですから、丁度、椛目のあれが、回路に近い時分に、あちらの仕事を請けたわけなんですよ。ですから、そのままごっそり、椛目の人夫を、あちらに持って行けば良か。新たに人夫を集めようたって、または、機械でこう、どういうようにしようと言うたってです。ここで仕事をしておるのですから、出来ない訳なんです。「ね」。これは、あの、その事だけではないですけれども、そういうような頂き方ですね。椛目の御造営が、私一人の為にあっておる。久富建設のためにあっておるというような頂き方。そこに、大きな喜び、大きな喜びに、大きなおかげ。大きなおかげを頂きよるから、大きな御用もまた、出来るということになるんです。
皆さん、私共の信心の、おー、大きな信心が良いと。「ね」。大きな信心には、行き詰まりがないと。小さい信心では行き詰る。大きな信心に、行き詰まりは無いと、教えて下さるんですけれど、ほんに、行き詰まりの無い大きな信心をさせて頂くということはですね。私は、そういうようなことではなかろうかと。「ね」。降る。照る。曇る。その事がです、まるきり私一人のために、降っておるのである。照っておるのである。曇っておるのであるという頂き方。また、そういう実感の出来れるおかげを頂くということが、「ね」。そこに私は、これをもっと、その信心を、本当のものにするために、その、裏づけとしてですたい。先日から、ここの、勿体島じゃない、常持と椛目のあいだで、事故があって、えー、亡くなられた人があるんですね。勿論、なるほど、三井郡善導寺地区になっておるです、あちらは。けれども、私は、あー、やっぱり、ここにが一番近いです。近いということは。ほんとにもう、私の信心の、踏み切ろうと。私は、その事を、ほんとにあのう、応援しなければおられない気持ちでございます。「ね」。なーんも、関係のないのです、言うならば。「ね」。関係はないのですけれども、おー、良いことも、私一人のためにならばです。「ね」。難儀なことも、私一人のために、起きておるというような実感です。そのために、天地に詫び抜いていくというような、信心が、その裏づけとして、できるようになったら、いよいよ深いものになってくるんだとこう思いますね。もう、天地の中に起きておることと、常のことに、有り難い事が起きて来ておったら、有り難いとお礼が申し上げられるのに。天地の中にきておる難儀なことが起こっておれば、私のその不足が、こういうことになっておる。こんな難儀な事になっておるといった様な、私は、実は、ここんとこが、正樹さんじゃないですけれども、この気持ちは、他の者じゃ分からんという。ですから、私が、こう言うておることも、皆さんには、通わないかも知れませんです。「ね」。自分の、祈り不足が、そういう、難儀な結果になっておるのだと、こう実感できるような、お繰り合わせを頂きたいと、こう思うですね。ただ、あそこには、事故があったぎなと、言うだけでは、いわゆる、よそよそしい、他人事ではなくてです。「ね」。だから、人はよそよそしい、他人事の思っておるような事柄の上にでも、「ね」。天地の(ふりてん?)のことの上にでも、私一人のために、神様がお働き下さっているんだという様な、「ね」。私は信心。私一人のために、お気付けを下さっているんだと、いうような、いわば、頂き方。もう一つ、お繰り合わせを頂かせてもろうてから、そこんところの、おー、信心が分からせて頂く様になったら有り難い。それをもっと、綿密に、そういう一つの信仰体験を、表現しておられるのが、親鸞上人様ですねえ。この世の中のこと、この親鸞一人のためにあっておると言うてある。それは、良しも悪しも含まれておる。この親鸞一人のために、世の中のことが、いわば、右左になっておるのだと。よーくその、煎じ詰め、突き詰めて考えて見ますとですねえ。確かに、そうなんですよ。「ね」。私一人のために、お気付けくださったのであり、私一人のために、神様が動いて下さっておるのです。これは、天地の事だって。してみると、んなら、親先生の為だけほんなら、こげな、私どものためじゃないというわけはないです。銘々が、そう感じられるように、世の中というのはそう出けておるです。そんなに、綿密な繋がりというものが、天地と私共の間にあるのです。それを私共は、良しに付け悪しきにつけ、感じるか感じないか。また、感じなければおられないように、お繰り合わせを頂くか、いただか無いかということにあるのです。
この頃の、椛目の東側の、ああ、西側のほうので、事故があって、常持の方が、亡くなられました。あれも、やっぱり、善導寺地区でした。けれども、やっぱり椛目の側でした。しかも、あれを、一番目撃したのは、私共でした。もう、一時ごろ、ここが月次祭の晩でございましたから、皆あそこに出たのと、事故が起きたのとが一緒でした。目撃したのは、私共でした。ですから、椛目の人達が十何人、お参りの人達が行って、あの、御用をさせてもらった。なんかその、観念を感じない訳にはなりませんから、私は、その、翌月でございましたかね、ここの、御霊様のお祭りには、あちらの御霊様も私は、奉仕させていただいた、御霊のお祭りに。「ね」。そういうその、お繰り合わせを頂くから、そういう一つの、椛目に対するお気付けとして、頂けれる実感です。今度の、その事の、常持の方でありました、あー、ね、その事故も、別に、何にも関係は無いと申しましたけれどもです。色々聞きよりましたら、関係が、やっぱ何とはなしにあるんですよ。ここにおります、中野さんのところで酒屋さんですよ。けれど、酒屋さんの、番頭さんでした、昔おった人だそうです。不思議なことで、その、引き回しというものがです。「ねえ」。それがこの、実感出来る事になってる、どういう事でも。ですからそれと反対の、おかげのほうの場合でもです。そういう実感出来るようなお繰り合わせ、タイミングというか、そういうおかげを、なるほど、私一人のために、天地が動いてござるぞーという実感。「ね」。私一人のために、照っておるのであり、私一人のために降っておるのであるというような、この実感が出来るときに、その喜びはまた、大きいでしょうし、同時にその反対に、そのお詫びの心というのは、いよいよ敬虔な、大きな意味合いに於いての、深いお詫びが出来るとこう思うんです。「ね」。ですから、また、そのお礼としてです。私一人のために、天地が動いてござるんだという実感。そういうその喜びがです。そのお礼がです。大きな御用になって、現れて来る訳なのです。 「ね」。大きな信心とは、そういうような意味合いのことを、私は、大きな信心というのじゃないだろうかと。自分たちの信心を振り返ってみて、あまりにも小さいなあと、こう、まず思うて、先ずその小さいそこから、分からなければならん。そこから頂いていかねばならんのでございますけれどもです。段々、目を、ほんなら、いよいよ大きなところへ、高いところへ置かせて頂いて、「ね」。久富さんが、昨日、言うておりますように、私一人、久富建設のために、天地が動いてござるような実感。いやこれは、信心のないものは、そういうものはとても分かりますまいけれども、私、その実感の中に、日日御用頂いておりますとこう言うておる、その、喜びの深さとか、広さというものは、また、格別だと、こう思います。そういう喜びを持って私は、本当の信仰的一つの喜びと言う事になって来るのじゃないでしょうか。「ね」。そういう喜びに、浸らせて頂けれるくらいな、大きなおかげを頂くために、大きな信心。「ね」。それは、(なえかときだけのことではない?)、それと反対のときでも、誰かれが悪いのじゃない、私一人のために、「ね」。ああいう事が起こって来たのも、ああいう難儀が起こって来たのも、私の祈りの不足のために、ああなってきたんだと、自分がそれを引っかぶってという、引っかぶってというたら可笑しいですけれどね。罪を引っかぶるという事になりますけれども、それを、自分の罪として、自分の不行き届きとして、お詫びの出来れるような信心が、またそれに必要であるということも、感じますです。「ね」。また一つ、大きな信心をさせてもらわにゃならんかも知れません。行き詰まりのない信心させてもらわにゃいけません。そして、大きなおかげを頂かせてもろうて、その、大きなおかげの喜びがです。大きな無量のお礼になってくるのであって、本当のおかげになるのじゃないでしょうかねえ。どうぞ。